消費税から見える日本社会のゆがみ――2025年参議院選挙を前に考える
こんにちは。藁総合会計事務所です。
2025年7月20日に投開票を迎える参議院選挙が迫る中、各政党から「消費税はお金持ち優遇」「消費税を減税して手取りを増やす」「給付金で生活支援を」といった政策が掲げられています。
しかし、これらのスローガンの背景にある本質的な問いに、私たちはしっかりと向き合えているでしょうか?
本コラムでは、消費税を起点に、格差・教育・政治参加・文化といった日本社会の構造的な課題を紐解き、今回の選挙を「未来の社会像を選ぶ機会」として捉える視点をお届けします。
■ 消費税は本当に“公平”なのか?
消費税は、一見すると誰にも同じ税率がかかる「公平な税制」に見えます。
しかし、収入の多寡によって実質的な負担率は大きく異なります。生活の大部分を消費に充てる低所得層にとって、消費税は実質的に重くのしかかります。これを「逆進性」と呼びます。
高所得層や法人は、さまざまな節税手段を通じて他の税から逃れる術を持っていますが、消費税だけは逃れにくい。この点において、消費税の増税は「取りやすいところから取る」構造になりがちなのです。
■ 給付金は根本的解決になるのか?
低所得層や困窮者への支援策として給付金が語られますが、それはあくまで「応急処置」であり、恒常的な貧困対策にはなりません。
税制の根本的な見直しや、再分配機能の強化、そして教育・福祉といった社会インフラの充実こそが、持続可能な対策といえます。
選挙のたびに給付金が話題になる背景には、「構造を変えずに人気を取る」という政治的打算も見え隠れします。
■ 教育格差は“未来の格差”を固定化する
消費税や再分配の不備は、教育の現場にも影響を及ぼします。
学習塾、家庭教師、進学塾といった教育資源へのアクセスは、家庭の経済力に大きく依存しています。
この「スタートラインの違い」は将来の所得格差に直結し、結果として「親の経済力が子どもの人生を決める」社会を再生産してしまうのです。
教育が本来持っていた“社会流動性のエンジン”としての役割が弱まっていることに、私たちはもっと危機感を持つべきです。
■ 「自己責任論」に潜む排除のロジック
政治家や評論家が好んで使う「自己責任」という言葉。これは、個人の努力や判断を尊重するという点では健全な考え方です。
しかし、現代の日本社会では、この言葉がしばしば「社会の側の責任放棄」として使われています。
障害、病気、家庭環境、非正規雇用、低賃金など、本人の力ではどうしようもない条件の中で生きる人々に対し、「努力が足りない」と切り捨てる社会は、やさしさを失った社会です。
■ 民主主義の“空洞化”と選挙の意味
今回の参議院選挙においても、政党の乱立や情報の氾濫により、何が争点なのか見えにくくなっています。
また、小選挙区制の影響で「一票の格差」や「死票の多さ」が問題視され、投票しても政治が変わらないという無力感が広がっています。
本来、民主主義とは「多数派が社会を変える仕組み」のはずです。しかし現実には、格差が固定された社会ほど、声の小さい層の意見が政治に届きにくくなっています。
選挙に行く「余力」がないほどに生活に追われる層が投票から遠ざかり、「声を上げられる人」の声ばかりが通る――。その結果、政治はますます偏っていきます。
■ 日本の“タイトな文化”が変化を拒む
日本社会の「空気を読む文化」は、安定と安心感をもたらす一方で、異論や多様な意見を排除しがちです。
変化を求める声が「わがまま」とされ、既存の秩序を守ることが正義とされるこの文化は、格差や制度疲労に対する改革のブレーキにもなっています。
社会の見えにくいひずみを直視しようとしない文化は、やがて“ゆるやかな衰退”をもたらす危険があります。
■ 参議院選挙を「構造を変える一歩」に
7月20日の投開票を前に、私たち一人ひとりに問われているのは、単なる減税や給付ではなく、
**「どのような仕組みで社会を動かすべきか」**という根源的な選択です。
- 消費税の再設計
- 所得・資産に応じた課税
- 教育・福祉への優先投資
- 投票制度と政治文化の見直し
これらを本気で議論し、実行できる人や政党を、私たちは冷静に選び取る必要があります。
■ おわりに
藁総合会計事務所では、税や財務を通して地域社会と深く関わっています。
社会の制度が誰のためにあり、何を守るべきかを問い直すことは、会計や税務の現場からも見えてくる重要なテーマです。
2025年の参議院選挙をきっかけに、表層的な議論ではなく、構造的な課題に光を当てる議論が深まることを心から願っています。
そして私たち一人ひとりが、社会のゆがみに目を向け、「静かな危機」に声を上げる当事者となれるよう、日々の暮らしから政治を考えていきましょう。